top of page

​兄者の名前を忘れた膝丸

 演練で会った弟は、僕を見つけるなり笑顔になり、子犬のように駆け寄ってきた。

「兄者! 兄者ではないか! 会えて嬉しいぞ!」

 他本丸の弟は喜びに満ちたように目を爛々とさせ、僕の手を優しく掴んだ。感極まったのか、うっすらと涙を浮かべている。

「やあ、弟の……えーっと名前は……何だっけ?」

 しかし、僕の返事にグッと奥歯をキツく噛み締め、眉間に皺を寄せてしまった。

「ひ、膝丸だ、兄者……」

「ああ、そうだね。そんな名前だった気がするよ」

「気がするではなく、そうなのだ……。どの本丸の兄者に会っても、誰も俺の名前を覚えていない……ひと振りくらい名前を覚えていても良いだろうに。時々、髭切という自分の名前すら覚えていない兄者もいるんだぞ」

 これから演練だというのにがっくりと脱力し肩を落とす。僕たちのやり取りを眺めていたらしい、膝丸と同じ本丸の緑の髪の刀と目があった。僕と目があったその刀はふふんと微笑ましそうに鼻を鳴らして笑い、僕たちに寄ってくる。

「すまないな、他所の。うちの本丸にはまだ髭切がいないんだ。大包平ならいるんだが。だから演習で髭切に会う度に膝丸はこうなってしまっていてな。見ている方は面白い」

 その刀は穏やかで上品な、鶯がさえずるような声でそう言った。

「ありゃ、そうだったんだね。僕の本丸にも、弟がいないんだ。だから僕も会えて嬉しいよ、弟の……名前はど忘れしちゃったけど、今日はよろしく頼むよ」

「兄者、先ほど俺が名乗ったばかりではないか!」

「名前なんてどうでもいいじゃない。それより、もう演練が始まってしまうよ。ほら、いいこだから、自分の部隊に戻らないとね」

 僕がそう言うと、不服そうにしていた弟は小さくため息をついてから背筋を伸ばし、端正に微笑む。

「兄者、全力でぶつかろう。そうでなければ訓練にならんからな」

「そうだね。勝っても負けても双方の利になる、いい事だよね」

 言葉を交わし、背を向けた弟を見送る。緑の髪の刀も「では、よろしく頼む」と言って、その後に続いた。

「早く、君の兄が来てくれるといいね」

 弟には届いていないだろうけれど、そっとそう告げ、自分の部隊の隊長である加州清光に向き直った。

 本当は、弟の名前を覚えていた。正しく言えば、弟が名乗って直ぐだったから思い出していただけなのだけれど、それでも、彼の名前を呼ぶ気にはならなかった。初めて名前を呼ぶなら、僕の弟がいいなと思っていたからだ。名前に特別思い入れがあるわけではないのは本当だ。けれど、弟の喜ぶ顔が見たい。今日、他の本丸の弟に会って、その気持ちは益々強くなった。僕の元にも、早く弟が来てくれるといいのだけれど。


 

 まるで遠い日を夢見るような気持ちでそう思っていたのだけれど、案外その日はあっさりとやってきた。

 主は、政府から戦力拡充計画が実施されたと言っていた。何と、その計画だと強さが一定の検非違使との戦闘が出来るらしい。どういった絡繰りなのかは分からないけれど、そういうものだと納得しておくことにした。

検非違使を倒し、先へ進もうとした時だ。桜吹雪が舞い、その中から現れたのは、まごう事なく弟の膝丸だった。

「源氏の重宝、膝丸だ。久し振りだな兄者」

 穏やかにそう声をかけられて、僕の身体は打ち震えた。演練で弟に会った時とは違う。僕の弟だと、全身が伝えているようだった。

「久し振りだね、弟の……膝丸。会えて嬉しいよ」

 僕がそう呼ぶと、弟は凛と整っていた表情をくしゃりと寄せ、笑った。

「ああ……兄者。俺も、会えて嬉しいぞ!」

 前に会った他の本丸の弟のように泣きながら抱きつくような事はしなかったけれど、その表情だけで、弟の胸が僕でいっぱいになっているのだと分かる。

 間違いなく、この子が僕の弟だ。


 

 弟の部屋は僕とは別になった。本丸を増築したばかりだったから、いくつか部屋が空いていたからだ。近侍である加州清光が膝丸を部屋に通し、本丸を案内するらしい。その間、出陣も終わり暇だった僕は南の縁側から、少し遠くに見える畑を眺めていた。昼過ぎの暖かい日差しに包まれながらそうしていると、足音が近づいてくる。曲がり角から姿を現したのは弟だった。

「兄者、こんなところにいたのか」

「おや、もう本丸の案内は終わったの?」

「ああ。一通り案内された。兄者は縁側に腰掛けて何をしていたんだ?」

 弟は僕の左隣に座り、僕の視線の先を追う。

「畑を見ていたんだ。ほら、トマトがあんなに実ってるよ。美味しそうだよねえ」

「トマトが食べたいのか?」

 首を傾げ、そう問われる。そんな真面目な弟がおかしくて、思わず吹き出してしまった。

「あはは、そうじゃないよ。ただ、実っているのを見ると、育てた甲斐があったと思って」

 僕がそう返せば、弟は目をぱちくりとさせる。

「……育てた? あの野菜は兄者が育てた物なのか?」

「僕だけじゃないよ。この本丸のみんなで育てたんだ。お肉とか魚とか、本丸内で作れない食材は買いに行くこともあるけど、野菜はみんなここで作った物だよ」

 僕がそう説明すると、弟は言葉を失ったのか、口を開けて何度も瞬きをするばかりだった。

「どうしたの?」

「いや……まさか……源氏の重宝である兄者が畑仕事をやらされているとは思わなくてだな……」

「お前も、明日は畑当番になっていたと思うよ」

「な、何だと!?」

「人間の身体は食べないと力が出ないからね」

「そうかもしれないが……全く、我々兄弟に妙な仕事を振らないでもらいたいな」

 あまりにも嘆く弟が可愛らしくてまた笑ってしまった。

 僕は立ち上がり、玄関へ向かう。すると弟も立ち上がり僕について来た。

「兄者、どこへ行くのだ。俺もついて行こう」

「そうだねえ、ついておいで。お前に見せたいんだ」

「見せたい、とは?」

 その質問には答えず、ただ前を歩く。玄関で靴を履いて庭にまわり、そこを横切って畑へ向かう。今日の畑当番はへし切長谷部と宗三左文字だった。へし切長谷部は僕たちに気づいて声をかける。

「どうした髭切、何か用か?」

「ううん。弟を案内してるんだ。邪魔はしないからここにいてもいいかな?」

「そうか、構ってやれないが、好きに見学するといい」

「うん、ありがとうね」

 そう交わした後、また少し歩いて、畑から少し離れた少し高くなっている丘の木陰に腰を掛ける。

「本当に刀が畑仕事をしていたな……驚いた」

「そうだね。でも、ここでは皆、こうしているんだ」

「まさか源氏の重宝が農具やっているとは、誰も思うまい」

 弟も地面に腰を落ち着かせ、同じように畑を眺める。少しの間、沈黙が続いた。ゆったりとした心地のいい沈黙だった。時々吹く涼やかな風が二人の頬をなで髪を揺らす。そうすると、前髪で隠れている弟の顔が見えるのだ。そして、弟の髪が揺れるのと同じように、畑の青々とした作物の葉や木の葉も波紋のように揺れ、葉と葉の擦れる心地よい音がする。

「僕はね、ここから見える景色が大好きなんだ」

 僕が声をかけると、弟は僕を見て、何も言わず言葉の続きを待った。

「千年も刀やってるけど、畑仕事なんてなかったからね。今まで出来なかった事が出来て、自分で育てた物を食べて、それが今はすごく楽しい。だから、こうやって作物の育った畑を一望していると、今僕がいる場所はここなんだなあって実感するんだ」

 畑から弟へと視線を移すと、目が合った。僕の言葉に耳を傾けていた弟がふっと柔らかく笑う。そして、また畑へと視線を戻した。

「確かに、この景色は綺麗だな、兄者。兄者が作ったこの景色、この膝丸が守ってみせる」

「大袈裟だなあ、この子は」

「大袈裟ではない。兄者を守れるのも、こうして人の身を得たからこそだ」

「それはそれは、頼もしいね」

 そっと膝丸に手を伸ばし、顔にかかった前髪を避けると、膝丸がこちらを向く。

「こうして触れられるのも、人の身を得たからだよ、膝丸」

 身体を寄せ、頬を撫でる。すると途端に膝丸の顔が赤くなったけれど、構わずに唇を寄せ、重ねた。音も立てずに唇を離して見つめると、僕の弟も僕を見つめている。

「……兄者、ここは外だろう」

 言葉では制止するものの、弟も満更でもないようで、それ以上は僕を止めようとしなかった。

「兄者じゃなくて、お前も僕の名前を呼べるよね、膝丸?」

「あ………………?」

 すると、先程までうっとりと細められていた膝丸の目が見開かれ、顔面がみるみる青ざめていくように引きつった。

「どうしたの?」

 不思議に思いそう尋ねても、膝丸は唇を震わせるばかりでなにも言おうとしない。それでも、漸くといったように細々とこう言った。

「あ、兄者……それが……何故か、兄者の……兄者の名前が、ひとつも思い出せない」


 

 結局あの後、弟は気でも狂ったかのように、頭を抱えて震えながら泣き続けてしまった。人に教えてもらって僕の名前を思い出していたけれど、足取りも覚束なく部屋に行って布団を敷くと、まるで病気にでもなったかのように寝込んでしまったのだ。

 僕にとって名前は割とどうでもいいから、忘れられていたくらい何とも思わないのだけれど、弟はそうもいかないらしい。

 朝、すすり泣くような声で目が覚める。何だろうと思って少し視線を動かすと、枕元で弟が正座していて、唇を噛み締めて声を押し殺しながら泣いていた。

「……どうしたの、弟の……えーっと」

 布団に寝そべったまま首をひねっていると、弟の視線がゆっくりと僕へと向いた。

「膝丸だ、兄者……」

 そして泣きながらもそう答えてくれた。

「ああ、そうそう、そんな名前だったね」

 布団から起き上がり、おはよう膝丸、と挨拶をする。弟は何か言おうとして、結局俯いて膝の上で拳をキツく握って黙ってしまった。

「いや……いいんだ。俺も兄者のことを言えたものじゃない」

「ところで、お前は朝早くからどうして僕の部屋にいるの?」

「兄者を起こしに来たのだ」

「そっか、ありがとうね。それでどうして泣いてるの? 確かに、起きた時に目の前で泣かれていたら目が覚めるけれど、斬新な起こし方だと思うよ」

「そ、それは……」

 ただ理由を聞こうとしただけなのに、弟はまた泣いてしまった。ありゃ、と宥めるように頭を撫でてやれば、またポツポツと話す。

「あ、兄者を、起こそうと思って……それで、名前を……呼んでみようと思ったら、また思い出せなくて」

「ああ、そうだったんだね。もう、それくらいで泣くことないのに。お前は泣き虫だね」

「それくらいではない! 俺が兄者の名を忘れるなど、あってはならない事だ!」

 わっと声を張ってそう言うと、その場で身体を丸め、額を畳に擦りつけるようにして泣き出してしまう。まるで童子のようだ。

「ほらほら、泣かないの。そのうち覚えられるよ、きっと。僕だって時々はお前の名前を思い出せるのだから、大丈夫だって。そんな事より、支度を済ませて朝餉を食べよう。僕たち、今日は畑当番でしょ」

 弟の顔を上げさせると、泣いたのは今朝だけでは無いのだろう、よく見ると目の下に隈が出来ていて、それでいて擦ったように赤くなっていた。もしかしたらこの子は一晩中泣いていたのだろうか。

「おやまあ、ひどい顔だねえ。一緒に顔を洗いに行こうか」

「ああ、そうだな兄者」

 まだすんすんと鼻を鳴らしている弟の手を引きながら洗面所へ向かう。洗面所には粟田口の短刀達が並んで顔を洗っていた。

「髭切さんと膝丸さん! おはようございます」

 僕と弟に気づくと、髪の桃色の子が大きな声で挨拶をした。

「おはよう。みんなこんなに早くに起きてるんだね」

「髭切さんも今日はお早いですね」

「うん、弟の……ええっと……この子が起こしに来てくれたんだ」

「兄者、膝丸だ」

 そういえば時計を見ていなかったから時間が分からなかったけれど、今は何時だろう。今まで洗面所で粟田口の子達と会った事が無かった。僕が起きて洗面所へ向かう頃には、この子達は支度を済ませていた気がする。

「もー、髭切さんも膝丸さんもどうしてお互いの名前覚えてないかなあ。ボクたちは兄弟多いけど、名前を忘れる事なんてないよ」

 髪の長い少女のような子が、手ぬぐいで顔を拭きながら話に混ざる。

「そんな事ないですよ。この間、薬研兄さんが僕の名前を言い間違えました」

 栗色の前髪を真っ直ぐに切り揃えた聡そうな子が呆れたように言った。

「言い間違えたって?」

「僕の事を前田って呼んだんです。その後すぐに間違えたって言って訂正してくれましたけど」

「あー、言い間違えってそういうこと。それならボクも厚から、薬研って言われたことあるよ。ちょっと前まで薬研と一緒にいたからついそう言っちゃったんだって。名前を忘れてるっていうより、うっかりだよね」

「僕もこの間、雀さんの事を燕さんて呼んじゃいました」

「秋田のそれは、ちょっと違うんじゃない?」

 短刀達はすっかり僕らの事を忘れ、お互いのうっかり談で盛り上がる。それを微笑ましく眺めながら、弟に振り返った。

「ほらね。名前を忘れてしまうなんてよくある事なんだよ」

「……そうなのだろうか」

 それでも弟の表情は晴れず、落ち込んだままだ。

 僕と弟も顔を洗い、既に着替え終わっていた弟は僕の部屋について来て、僕の身支度を手伝った。弟より先にこの本丸に来たのだから、手伝われるまでもなく支度なんて出来るのだけれど、弟があまりにも楽しそうに手伝う物だから止める気にもなれない。

 朝餉を終えれば直ぐに畑当番だったから、二人とも着ているのは内番着だ。

「折角起こしに来てくれたのに悪いんだけど、僕は朝餉の前に主の元へ行ってくるから、お前は先に食べていてくれないかな?」

「いや、いい。俺も同行しよう」

「大丈夫だよ。それに、僕は主と二人で話すことがあるんだ。いいこだから、先にご飯を食べておいで」

 ね、と言って弟の頭を撫でる。弟は、そうか、と残念そうに言うと、廊下を出て広間へと向かった。

 僕が主の部屋へ行くと、そこには通常着の加州清光がいた。

「あれ、なあに、髭切。こんな朝から主に何か用? 悪いんだけど、主、徹夜明けみたいでさあ、今寝たところなんだよね。要件なら俺が聞くけど」

「ああ、そうなんだね。弟の事で話があったんだ」

「膝丸の事?」

「うん。今日、僕と弟は畑当番だったんだけど、弟がね、眠れなかったみたいなんだ。だから悪いんだけど、今日の当番を変えてもらえないかな」

「ああ、そういう事ね。昨日の膝丸、酷かったもんね。泣きながら廊下を歩いてた時は何があったのかと思ったもん」

「心配かけてごめんね」

「別に、心配はしてないけど。でもみんなビックリしちゃうから。とりあえず、当番は他の人に聞いてお願いしてみる。髭切は膝丸の事見てあげてよね」

「うん、ありがとう。それじゃあ、よろしくね」

「はいはーい」

 加州清光はひらひらと手を振り、僕を見送る。僕は背を向け、広間へと向かった。

「ああ、後さ」

 思い出したように呼び止められ、また振り返る。

「髭切も、名前呼んであげなよ。弟、弟って呼んでないで」

「うーん、呼びたいのは山々なんだけど、名前が沢山あるから、今はどれだったかなあと思うと、思い出せなくなるんだよね」

「でも、今この本丸にいる膝丸の名前はひとつじゃん」

「そうだね。今のあの子だけを覚えてあげられればいいんだけど、千年も刀やってるとねえ、大抵のことはどうでもよくなってくるんだよねえ。刀の名前なんて、持ち主が思い入れ持てるかどうかだし」

「じゃあ髭切は、膝丸の名前に何の思い入れもないの?」

「思い入れか……どうだろう。もう随分昔のことだから、覚えてないなあ」

「……そう。ごめんね、呼び止めちゃって」

「ううん。お仕事お疲れさま。弟のこと、気にかけてくれてありがとね」

 そう言って、今度こそ広間へと足を運ぶ。


 

「兄者、こっちだ」

 広間に行くと、二人分のお膳を並べている膝丸がいた。見ると、まだ食事に手をつけていないようだ。

「ありゃ、先に食べて良かったのに」

「しかし、この本丸に来て初めての朝くらい、兄者と共に食事をしたい」

「……もう、お前はそういう事を言って」

 こんな可愛らしい事を言われて、思い入れが無いはずがない。けれど、だからこそ名前なんてどうでもいいと思ってしまう。

 名前なんて、持ち主によってコロコロと変わってしまうようなとても不確かな物だ。そんな物よりも、今目の前にいる、変わることのない存在の方がずっと愛しくて、思い入れがある。なのにどうして名前にこだわる必要があるのだろう。この子が僕の弟である事だけは決して揺るがないというのに。

 弟は黙々と朝餉を食べる。けれど、箸の進みが遅いものだから、僕のほうが先に食べ終えてしまった。

「どうしたの? 食欲無い?」

「え? ああ、いや、そうでは無いんだ」

「じゃあ、もしかして口に合わなかった?」

「いや、食事はどれも美味い。ただ、黙っているとどうしても気持ちが沈んでしまって。何故俺は兄者の名前を思い出せないのかと……」

「……お前は、そんなに僕の名前が好き?」

 それは、ちょっとした意地悪のつもりだった。もしかしたら、そんなに思ってもらえる自分の名前に微かに嫉妬したのかもしれない。

「ああ。当たり前だろう。名前も兄者のひとつなのだから、全て大好きだ」

「……そう」

 しかし、弟はそんな僕の気持ちを知る由も無かった。

 僕の髭切という名前は、別に僕が自分自身に与えた物でもないのだから、『僕の物』でも無いのに。むしろ、名前なんて『名前を名付けた人の物』だろうに。それでもこの子は、それすらも僕の一部だからと愛している。

 僕には分からない。僕の知らないところで付けられたお前の名前なんて、本当は知りたくもなかった。だから、名前なんて本当にどうでもいいのに。ただお前が喜んでくれることが一番なのに。

 

 ゆっくりだったけれど朝餉も食べ終わり膳を下げ、内番が取り下げになって暇になった僕達は、また本丸の中をフラフラと歩いた。誰かとすれ違っては、名前を呼ばれ、挨拶を交わす。一言も何も言わない刀もいたけれど、気にはならない。

 しかし、それでも気が紛れないらしい弟はまたため息を零した。

「どうしたの」

「みな、俺たちの名を覚えているのだな」

「うん、そうみたいだね」

「俺も、兄者以外の刀の名は覚えられるみたいなんだ。ただ、兄者の名だけ……何故なんだ」

「僕は気にしてないから、思い悩まなくていいのに」

「しかし、昨日兄者は、名を呼んで欲しいと言ったではないか」

「それはほら、気分だったから」

「俺はその兄者の気分にも応えたいんだ」

「ありゃあ、そうなの。大変だねえお前も」

 他人事のように僕が言うと、弟は、兄者ぁー!と大声を上げた。それが可笑しくってまた笑うと、弟は拗ねたように唇を尖らせる。

 涼やかな風が吹く。頬をなで、木々がそよぐ。ふと、畑の匂いが鼻をくすぐったような気がした。廊下から畑を見ようとしても、ここからでは建物が邪魔で見えない。それでも、脳裏には自分たちで作った野菜や、果物が思い浮かぶ。

「ねえ。僕たちの名前は持ち主を変えるごとに……逸話ごとに移ろってきたよね」

「そうだな。ああ、それは覚えている。そうか! 逸話から思い出せば名前も思い出せるということか! 流石は兄者だ!」

「いやあ、僕はそんな事は言ってないんだけどね。そうじゃなくて……だとしたら僕たちは、ここではどんな名前になるんだろうって、思って」

「ここでの、名前?」

「うん。ここでもまた、僕たちに新しい名前が付くんじゃないかって、そう思ってるんだ」

 弟は何度か瞬きをした後、首を傾げ怪訝そうな目をした。

「何を言っているんだ、兄者。もう俺たちには十分すぎるくらい名がある。ここでは名付ける人もいない」

「うん、そうだよ。だから、ね。今度は、自分たちで名前をつけられるんじゃないかって思わない? 忘れてしまったなら、また名付ければいいんだよ」

「そうは言われても、急には思い浮かばんぞ?」

「う~ん、そうだねえ。じゃあ、雑草切り、なんてどうかな?」

「な……何故、雑草?」

「畑仕事をしている時に沢山雑草を切るんだ。だからどうかな?」

「絶対にダメだ」

「そっかあ、難しいねえ」

 即却下されてしまった新しい名前に続いてまた何か無いかと考える。立っているのも疲れて廊下から中庭へ足を投げて座り、空を見上げた。雲の白と空の青の色彩が眩しくて、どこまでも続くような透き通った空だ。

「空、とかは? 綺麗だよ」

 弟も、僕と同じように腰掛けると、空を見上げ、眩しそうに目を細める。

「空か。うむ、悪くないと思う」

「じゃあ、今度から僕の事は空と……」

「だがそれとこれとは話が別だぞ兄者」

「おや、ダメだった? お前は注文が多いね」

「注文なんてした覚えは無いのだけれど」

「僕は空で、お前は雲丸にでもしようと思っていたのに」

「雲……」

「なんてね。空も雲もダメなら……そうだねえ、花丸なんてどう?」

 僕のその言葉に弟は僕の視線を追う。その先にある夏の花を見て、ため息をついた。

「それは、随分とめでたい名前だな」

「だろう?」

「だが、却下だな」

「そっかあ、ダメか」

 僕は段々面白くなってきて、目に入った物全てを弟の名前になぞらえた。弟は律儀に、その全てに返事をくれて、その全てを取り下げていった。途中で洗濯物を持って廊下を通っていった燭台切光忠を見て、燭台丸、と言った時は、流石に苦い顔をしていた。

「じゃあ、そうだなあ…………」

 廊下から目に入るものは全て挙げてしまって、さてどうしようと弟を見る。弟は穏やかに笑っていた。さっきまであんなに泣きそうな顔をしていたのが嘘みたいな朗らかな笑顔だ。

「……膝丸」

 だから僕は、目に入った弟の名を呼んだ。

「え?」

「聞こえなかった? だから、ここでのお前の名前だよ。膝丸にしよう」

「いや、ここでも何も、俺は膝丸だ」

「そうじゃなくて、新たに、僕がお前に膝丸って名付けるんだよ。それが、僕が名付けた、ここでの……この本丸での、お前の名前だよ」

 膝丸は「この本丸での名前……」と、うわ言のように繰り返す。

「ねえ、膝丸。僕のここでの名前、何がいいと思う?」

「兄者の名前……兄者は……」


 

 兄者の名前は、髭切だ――――。



 

 こうして、僕と弟は、髭切と膝丸という、ここでの新たな名前を得た。

 これが、ここにいる僕たちの名前。僕たちが名付けた、忘れることのない名前。

 

 畑当番の時の土や草の香りと、僕の作った野菜と、葉の擦れる音と、涼やかな風と、隣にいる僕が名付けた膝丸が、今僕がいる場所はここなんだなあって、実感させてくれていた。

bottom of page